ダム上流2.3km地点から未舗装林道だが、シクロ・クロスバイク程度で、快適な走りが出来る安定した路面。

      県道122号高田酸ケ湯線・拡大図
      県道122号高田酸ケ湯線・拡大図

 「雲谷峠」のスキーコースは中腹から大きい石と雨水浸食でワダチ多く、何度も登坂挑戦も敗退。市内から「萱野高原」方面上りは観光客少なくなっても車両多く、攻めるのは「合子沢」方面からが安全。


 昭和50年代からイワナ釣りで親しんだ合子沢川近辺も、合子沢公園などの施設へのアクセスで立派な舗装路となった。しかし、清流の美しさは昔日と変わりなく、今一度、竿を下ろしてみたい。合子沢「稲荷神社」から「岩木山展望所」までの道のりは果てしなく長く、アシストMTBのバッテリーはドンドン減り帰路が心配に。八甲田ゴールドラインなら予備必要。

 合子沢一帯は、八甲田山の噴火によってできた台地上に立地しており、縄文時代から平安期にかけての集落跡が多数見つかっています。それらには、「合子沢松森(1)、(2)・・遺跡」というように番号がつけられていますが、合子沢稲荷神社の近くのものは、合子沢松森(2)遺跡です。 この遺跡は、東北新幹線建設工事に係わって発掘調査が実施されましたが、調査の結果、竪穴住居跡、土器埋設遺構、溝跡などの遺構や土師器や須恵器などの遺物を確認し、本遺跡は、平安時代を主体とする遺跡であることが判明した。    ※青森市教育委員会「合子沢松森(2)遺跡」発掘調査概報より

勝田「稲荷神社」取り置き

勝田稲荷神社(境内案内板より)…『草創の一として、元和元年の大坂夏の陣において大坂落城、落人として、同志三人とともに津軽藩二代藩主・信牧公の側室 辰子姫(大館御前・石田三成娘)の縁をたよりにして、津軽へ落ちのび、一人は弘前へ、一人の高坂左兵衛は大野村へ、今一人の工藤半三郎は勝田村へと住まい を定め、後年、入植した関弥八郎と協力して勝田新田を開拓するにいたった。そのおり、五穀成就のために勧請したといわれる。<浜田玉川の直指山見性寺の前 身・直指庵と由緒あり>。草創の二として、同じく大坂城落城にさいして、大坂方の武将で近江頼義の子・頼光が自分の城の守護神である稲荷神を背負って落ち 延びて来て、勝田村の一遇に祠を建て安置したと伝えている。県神社歴に、寛永年間に工藤半ヱ門なる人の手に依って雨乞いの行事が行なわれたとの記載があ る。祭神のウカノミタマノカミは、「古事記」には、宇迦之御魂神とされ、この神は、須佐之男神と大山津見の娘…神大市比売との子と記述されている。「宇 迦」は「食(うけ)」と同じ意味で食物のことをさし、「百穀の首座」にある稲霊(穀霊)で稲の精霊を神格化して信仰され、基本的な性格は五穀・食物を司る 神とされます。「日本書紀」には、伊弉諾尊と伊弉冉尊が国生みに疲れ飢えて気力なくなったときに産んだとされる神で、倉稲魂命と記述されている。全国にあ る稲荷神社は、約三万社数えられますが、その総本社は、京都の伏見稲荷大社です。稲荷の神というのは、日本人の主食である米の生成をお守り下さる神様で す。イナリとは、「稲成り」「稲生り」に由来し、稲がゆたかに立派に稔る様をいい、これを、稲の取り入れ時に刈り取った稲の束を肩に荷なって神に捧げたと ころから「稲を荷なう」すなわち「稲荷」という字があてられたと言われます。また、倉に稲を運び入れる様を見て、「倉稲の神」との神名を充てられたとも言 われます。斯様に、生命の源となる食物、ことに稲は「生命の根」であり「生き根」イネです。私共は、この「食物の魂」のお働きによって生かされているので す。神のお使えの神使として、狐が仕えていますのは、稲の大敵であるネズミの駆除に功績があることから、一緒にそなえまつられるようになったとされます。 鳥居は、夜明けを告げる鶏の止まり木を象徴し、トリイの語音は「通る」につうじて、願いごとが通るという意味があるそうです。稲荷鳥居の赤い色は作物が成 熟するさまをあらわし、豊年満作を象徴する色とされております。神階の「正一位」に叙された背景は、弘法大師空海に下賜された東寺へ、五重塔造立に際して の出来事が発端となって、「従五位下」の神階に叙せられ、その後、次第に神階は上がり、天慶5年(942)には最高位の「正一位」に叙せられることになり ました。日本に仏教が入ってきてから、神仏習合本地垂迹の思想が浸透し、仏教の守護神としても祀られるようになり、曹洞宗豊川閣妙厳寺の佛法守護の善神豊 川稲荷のような別系統の稲荷社もございます。神徳…農耕神・建設の守護神として、もともと地域開発、殖産興業の守護神的な性格を持ち、五穀豊穣・諸産業興 隆・商売繁盛・除災招福・家内安全・夫婦和合・芸能上達等の徳が得られ、身近なところでは、百貨店・麻雀・煙草の神ともされる。』